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閑静な住宅街に囲まれたフラットな林間コース。コースの開場が昭和6年と、歴史と伝統がある格式高いゴルフ場。ベントグリーンとコウライグリーンの2グリーン制を採用したのもこのコースが最初で、現在は2種類のベントグリーンで構成されている2グリーン制になっている。18万坪に欠けるコースは決して広くないが、巧みなルーティングで箱庭的なコースに仕上がった。中央部分のホールはゆったりしているが、外側のホールが少し窮屈な感じがする。その原因としては当時のコースの周りは原野で、豊かな周囲の雰囲気を取り込むために、設計者が境界ホールをギリギリに寄せた可能性が高い。
今回は本グリーンでプレーした。林間コースながら松林が密集していないので、見た目から感じるプレッシャーは少ない。全体的に砲台グリーンが多く、ラフがしっかり効いている。オーバーハングの深いエッジを持ったバンカーはこのクラシックなコースの印象を高めている。OUTは大小のバンカーが巧みに配されており、このバンカーに捕まるとスコアメイクにかなり苦しむ。インも同様バンカーが数多くあり、戦略的なホールが続き池越えなど変化に富んでいる。18番ホールあるいは4番ホールのFWから見る、広い緑青の屋根をコース側にやや傾けて見えるクラブハウスは、クラブハウスの絶品という人が多い。
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強い左ドッグレッグ。ティショットでは左サイドは木立とバンカーがあり、FWは飛べば飛ぶほど狭くなる。ベストラインは左サイドのバンカーのすぐ右。グリーンは砲台で4個のバンカーで囲まれている。 |
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左ドッグレッグ。ティショットでは左サイドの口を開けているバンカーは215ヤードのキャリーで越える。アベレージヒッターはFW右サイド、右サイドと攻めるのが良い。グリーンの左手前と右サイドに深いバンカーが配され、グリーンは強い砲台で右上から左下に傾斜している。
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ほぼストレートの難ホール。ティショットではFWはS字に蛇行していて狭い。右のラフに打つと、セカンドでグリーンを狙いづらい。グリーンの右サイドにOBゾーンがあり、グリーンの左サイドと右手前のバンカーが効いている。受けグリーン。 |
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グリーンは右手前から左奥に斜めに長い砲台で、3個のバンカーが配されている。グリーン右サイドから奥をガードしているOBラインは浅い。 |
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左ドッグレッグの短いロング。2オン可能だがグリーン周りの難易度が高い。ティショットでは左サイドの大きなバンカーに注意しながら、その右端を越えていくのが良い。セカンドは緩やかな打ち上げになり、グリーン手前60ヤード付近から起伏がある。グリーンは砲台で左手前は大きなバンカーでガードされている。グリーンは右奥の方に傾斜していて止まりにくい。
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グリーンは右手前から左奥に斜めに長い砲台で、3個のバンカーが配されている。グリーン右サイドから奥をガードしているOBラインは浅い。 |
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やや右ドッグレッグ。ティショットは右サイドのFWバンカー越えで、飛べば飛ぶほどFW幅は広くなる。グリーンはお椀型の砲台で、急な左傾斜。グリーン手前に大きな窪みがある、左手前は大きなバンカーでガードされている。 |
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グリーンは強く受けていて、砲台グリーン。グリーン左右にガードバンカーがある。 |
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ほぼストレートの短いミドル。ティショットではFWは狭く、左サイドから大きなバンカーがFWに食い込んでいて、そのバンカー越えには240ヤードのキャリーボールが必要。バンカーの右サイドを転がして越えるにはFW幅はとても狭いので、バンカーに届かないクラブで打つのが安全。グリーンは横長の強い砲台で、手前と左サイドにバンカーがある・グリーンオーバーはすぐOBとなり注意が必要。
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やや右ドッグレッグの短いロング。2オン可能。ティショットでは左右にバンカーがあるが、効いていいない。左のバンカー越えのルートが良い。セカンドはセミブラインドになり、右サイドのOBゾーンは浅く、大きなバンカーも右サイドからFWに横たわる。グリーンは受けていて、右サイドはすぐにOBゾーンになる。
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東京都心から南西に50分、横浜市からほぼ西に30分。ビジターのプレーはメンバーの同伴か紹介が必要。相模CCから
程ヶ谷CC、横浜CC、 戸塚CC、 相模原GCは近くにあり、全てのコースが車で20分前後の距離。
トットップ100ゴルフコース(top100golfcourses.com)での2020年度日本ベスト80コースで第46位。日本には2300ほどのゴルフコースがある。赤星六郎設計の他のコースは我孫子GCがある。
赤星六郎が設計した。赤星は大正末期にアメリカに留学、プリンストン大学ゴルフ部員として鳴らし、トーナメントにも優勝した。帰国後は昭和2年の第1回日本オープンに優勝、安田幸吉らのプロを指導した。日本で3コース設計のために来たチャールズ・アリソンに同行し、その設計思想や技術に影響を受けたコース設計家でもあった。不幸にも昭和19年、44歳の若さだったが病気で亡くなった。設計したコースは2コースだけで両方とも傑作。長生きしていれば、日本が誇るもっと多くのコースを設計できたはずだ。
プレー前夜はホテルセンチュリー相模大野で泊まった。コースまで南に15分。
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2番 パー4 389ヤード(2)