我孫子ゴルフ倶楽部
Abiko Country Club

コースデータ
所在地茨城県
コース長6778ヤード、パー72
コースレート72.3
プレー日2006年10月19日
設計者赤星六郎
オープン1930年
キャディあり
ゴルフカートなし
評価
総合評価
4.40
コースレイアウト
5
難易度
3
グリーンコンディション
5
フェアウェイコンディション
4
造形美、景観
4
 

クラブハウスからの景観

ほとんどフラットな林間コース2グリーン制。ストレートなホールが多いが、それぞれ個性的で趣が異なる。フェアウェイは広いが微妙なアンジュレーションが残り、深いバンカー、小さい砲台グリーンに特徴がある。自然の地形を単に活かしているというだけでなく、それを手際よくデザインに取り入れ、戦略性高めている。また、グリーン前後左右に、ガードバンカーで固められていて、花道があるホールが少ない。アウトはクロスバンカーやガードバンカーに趣向が数多く凝らしてあることでも有名。グリーンも小さく、キャリーで止まるボールが要求され、止められないなら、グリーン手前のバンカーに入れた方がいいことが多い。フェアウェイは広いが、アウトは左OBが、インは右OBが多く、注意が必要。

 
2番 パー4 414ヤード
ほぼストレートの難ホール。ティからフェアウェイ右バンカーまでは260ヤードで入る。グリーンは少し受けていて、砲台になっている。グリーン右手前のガードバンカーは深いので注意が必要。
 

2番 パー4 414ヤード(3)

2番 パー4 414ヤード(2)

2番 パー4 414ヤード(1)
 
3番 パー3  192ヤード

3番 パー3 192ヤード(2)

3番 パー3 192ヤード(1)
美しいショートホール。グリーン手前のバンカーが効いている。グリーン左と奥はOBになるので注意したい。
 
6番 パー5 507ヤード
ほぼストレートホール。セカンドショット地点先にはフェアウェイを横切っている深く長い凹み部があり、ホールを印象深くしている。ロングヒッターは2オン可能だが、セカンドでは右の林が迫っていて打ちづらくなる。セカンドを刻む場合でも、フェフェアウェイ中央に木立があり、セカンドを少しでも左に打つと、その木がスタイミーになりサードショットでグリーンを狙いにくくなるので、ピンポイントのショットが要求される。
 

6番 パー5 507ヤード(3)

6番 パー5 507ヤード(2)

6番 パー5 507ヤード(1)
 
10番  パー5 498ヤード
2オン可能な急な左ドッグレッグ。ティショットは窪み越えで、左コーナーにあるバンカー越えを狙いたいが、そのバンカーの先にはラフが待ち構え、280ヤードのショットを打たなければフェアウェイに届かない。2オン狙いはフェアウェイセンターからドローボールで攻めるのが理想。グリーンは少し受けていて砲台になっている。


10番グリーンガードバンカー

10番 パー5 498ヤード(2)

10番 パー5 498ヤード(1)
 
13番  パー3 157ヤード

13番 パー3 157ヤード(2)

13番 パー3 157ヤード(1)
谷越えのショートホール。グリーンは奥から手前の傾斜が強いのでピン位置をオーバーすると下りのバーディパットが難しくなる。4月初旬にプレーすると桜の木が美しいホールになると聞く。
 
14番  パー4 377ヤード

14番 パー4 377ヤード(2)

14番 パー4 377ヤード(1)
ほぼストレートの比較的短いパー4。フェアウェイ左サイド190ヤード位から240ヤードくらいまで 2つのクロスバンカーが効いているので、ティショットから神経を使うホール。 グリーンは砲台で左右真ん中と3つのバンカーにガードされているので、セカンドショットでは、スピンが効いたキャリーボールを要求される。

 
余談

クラブハウス内

東京都心から車で1時間、電車とクラブバスでも1時間。ビジターのプレーは平日は会員の紹介、土日は会員の同伴が必要。オフィシャルハンディの合計が50以下ならフルバックティでのプレーは可能。我孫子名物のうな重定食は美味しかった。

我孫子GGのバンカーはアリソンバンカーと言われるほど深く、青木功、林由郎、佐藤精一、海老原清治を輩出したコースで有名で、全員バンカーの名手として知られている。

赤星六郎設計の他のコースは、相模CCがある。兄の赤星四郎の設計コースは、桜ヶ丘CC、霞ヶ浦国際GC、箱根CC、上総富士GC、霞ヶ関CC・東コース、東京国際CC、 程ヶ谷CC、本厚木CC、熱海GC、伊豆にらやまCC、御殿場GC、富士CC、芥屋GC、阿蘇GC赤水コースがある。ちなみに、赤星六郎はプリンストン大学留学中の大正18年にパインハーストCC(ノースカロライナ州)で行われた第20回スプリングトーナメントで優勝、帰国後には第1回日本オープン(昭和2年)でプロを抑え、見事優勝した。同氏は、日本にアメリカ仕込みの近代ゴルフを持ち込んだ先駆者とも言われている。